詩篇 94:5-15 コリントの信徒への手紙一 3:18-23
「わたしはパウロにつく、わたしはアポロに、わたしはケファに、わたしはキリスト に」と、同じ教会内で四分五裂して妬みと争いの中にあるコリントの教会、人間の誇 りが中心になっている教会から真にキリストのものである教会になるための格闘が続 きます。 「だれも自分を欺いてはなりません。もしあなたがたの誰かが、自分は知恵のある者 だと考えているなら、本当に知恵がある者となるために愚かなものになりなさい」と。 「自分を欺く」ということは、真実の自分に向き合うことができないで、自分を過大 に評価すること、過小に評価すること、偽りの自分を自分だと思い込むことです。 そもそも私たちは何によって自分を正しく評価することができるでしょうか。鏡を見 なければ自分の顔を見ることができないように、わたしたちが自分を見つめるために は他者の顔や言葉や心に映ったものでしか見ることができません。だとすれば、わた したちを映し出している鏡はゆがみのない正確な鏡でありうるでしょうか。罪を犯し た最初の人間は相手の裸であるのを見て自分の裸に気づいてイチジクの葉で隠したよ うに、他者との対比の中でしか自分を見ることができないとすれば、誰も「自分を欺 く」ことから免れることは出来ません。したがって、わたしたちが何か真実のものを 知ろうとするなら、自分は何も知らない者、愚かな者であるとの認識から出発し直さ なければならないと悟るのは人間の知恵です。ギリシャの哲学者ソクラテスは「無知 の知」に達することが知恵の初めと唱えました。パウロが「本当に知恵のある者とな るために愚かな者になりなさい」と語るのは、自分の無知を悟る」ことに重点が置か れるのではありません。主イエス・キリストの「十字架の言葉」に示されている神の 知恵に学び、この歩みに根差して歩むように勧めているのです。「誰も人間を誇って はなりません」は、1:31に「誇る者は主を誇れ」と記されていることと結びあいます。 「すべてはあなたがたのものです。パウロも、アポロも、ケファも、世界も、生も 死も、今起こっていることも、将来起こることも、一切はあなたがたのものです。あ なたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」人間と結びついて自分 の誇りを造りだし、自分の自由を売り渡している者に対して、パウロは主を誇りとし て生きる者の心の拠り所が何かを高らかに歌います。「わたしはパウロに、わたしは アポロに」を言い合う世界とは逆に、「パウロもアポロもあなたがたのもの」である ばかりか、生も死も世界すべてがあなたがたのものであり、あなたがたはキリストの ものだから、というのです。この言葉もローマ8:31以下の言葉を結び合わせるとその 深みが理解できます。キリスト・イエスにおいて表された神の愛に根差すからです。
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