8月14日
2016年8月21日

「神の霊、キリストの思い」

イザヤ書 55:8-13 コリントの信徒への手紙一 2:11-16


 パウロがコリントの教会に勧める言葉、「皆勝手なことを言わず、仲たがいせず、

心を一つにし、思いを一つにして固く結びあいなさい」(1:10)は、どこの国のどの

時代のどこの教会についても反省を迫られる牧会的な課題です。パウロはこの課題を

解決に導くために立ち帰るべきところは「十字架の言葉」を聞くこと、すなわち十字

架につけられた主イエス・キリストとの確かな結びつきであることを明らかにし、人

間の知恵や能力に頼る信仰に陥らないように戒めます。では、人間の知恵やこの世の

知識からすれば愚かでつまずきとしか思えないような「十字架の言葉」をどうしたら

神の知恵、神の力として聞くことが出来るのか。ここで十字架の言葉を聴くための決

定的なカギがあることが明らかにされます。「わたしたちは世の霊ではなく、神から

の霊を受けました。それで、わたしたちは神から恵みとして与えられたものを知るよ

うになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵によって

教えられた言葉によるのではなく、霊によって教えられた言葉によっています」と、

神の霊の働きを語るのです。この短いパラグラフの中に「霊」や「霊的なもの」とい

う言葉が14回も出て来てその重要さが強調されています。「霊は一切のことを、神の

深みさえも究めます。人の内にある霊以外に一体だれが人のことを知るでしょうか。

同じように、神の霊以外に神を知る者はいません」と、霊の独特の働きについての踏

み込んだ表現が注目されます。

 ここで、自らの信仰の確かさを確かめようとするとき、独特のディレンマに陥るの

ではないでしょうか。十字架の言葉、すなわちキリスト教の福音は、人間の理性や世

の知恵によって理解できるものではなく神の霊の働きによらなければならない。神の

霊以外に神の深みを知ることは出来ない、この原理は確かで動かすことはできません。

しかし、一方、人間であるわたしたちは神の霊の働きをどこで確かめることが出来る

のか、人の知恵として語られる言葉と神の霊によって語られる言葉をどのように識別

することが出来るのか、と考えるとおぼつかなくなるのです。そこで、わたしは確か

に霊の働きによって「十字架の言葉」を聴いていることを自らに納得させるために、

道徳的・人間的な行為によって実証しようとしたり、特別な霊的能力を誇示したりし

たくなります。結局、人間の知恵と行為、理性による確信の世界に逆戻りしてしまう

のです。パウロはこのディレンマから抜け出すために、神の霊によって神から与えら

れた恵みを知るようになったことを、「わたしたちはキリストの思いを抱いています」

という言葉に置き換えて語ります。聖霊の働きは「キリストの思い」として現実化され

具体化されてわたしたちに働きかける、というのです。


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