イザヤ書 40:9-17 コリントの信徒への手紙一 2:6-16
一致できないで分裂状態にあるコリントの教会の現状に対して、パウロは「十字架 の言葉」に立ち帰って生きるように心を込めて語ります。しかし、「十字架の言葉」 は、その内容においても、その言葉の聞き手・受領者においても、またその言葉の宣 教者・証言者においても、人間的な見地からすれば「愚かさ」「弱さ」「無に等しい 者」のトリプル・ハンディーがあることを明らかにします。そのうえで、「しかし、 わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」と、この世の知恵か らすれば愚かとしか思えないようなことの中にある隠された神の知恵、神の力を知る ようにと語るのです。 ここで「信仰に成熟した人たち」とは、もちろんコリントの洗礼を受けたキリスト 者のことですが、この言葉には皮肉が込められていると解釈することができます。自 らを完成した人と自称して他のキリスト者のグループのことを見下しているような信 仰の在り方を示している人々に対する皮肉です。3章1節には「霊の人」と「肉の人」 「乳飲み子である人」といった信仰の持ち方について差別化する言葉が出てきますが、 このような言葉が教会の中に飛び交っている状況を示しています。特別な霊能者、霊 的な賜物を誇り合い競い合うような状況があったのは確かです。このような状況に対 して、パウロは本当に信仰において成熟するとはどういうことかを示そうとしている のです。 問題は、「十字架の言葉」が人間の知恵と並ぶもの、人間の誇りを支える知恵の一 つのようなものとなってしまっているところにあります。「隠されていた、神秘とし ての神の知恵」であり、「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しません でした」と語られるほどの落差と隔絶に直面することのない信仰、人間の知恵の延長 線上にある信仰でしかない信仰が、教会の信仰と生活に生ぬるさと頽落、分裂を引き 起こしています。 「信仰に成熟した人たち」が知るべき知恵は、「イエス・キリスト、それも十字架に つけられたキリスト」について知ることを意味しますが、この知恵によって示されて いることが何かを明らかにしている大切な言葉があります。この知恵は「神がわたし たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておかれたものです」「目が見 もせず、人の心に思い浮かべもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備 された」と。この知恵こそ、人間の知恵とは隔絶した、創造者の時を超えた意思であ り神の愛の現れだというのです。この神の意思と愛は、今わたしたちにも向けられて います。
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