エレミヤ書 17:9-18 コリントの信徒への手紙一 2:1-5
「十字架の言葉」、すなわち、十字架につけられた主イエス・キリストの福音こそ神 の力、神の救いであることを宣べ伝えるパウロは、この福音が「滅んでゆくものには 愚かなもの」であり、またその福音を聞き、信じるに至ったコリントの人々について も「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく…世の無に等しいもの、身分 の卑しい者や見下げられている者をえらばれたのです」と、失礼とも思えるような言 葉を使って互いにねたみあっている教会に警告を鳴らします。「誰一人神の前に誇る ことがないように」というのです。それだけではなく、今度は福音を語る者、福音宣 教者についても、愚かさと弱さにおいて語られ、伝えられるものであることを、自分 自身のことに照らし合わせて語っています。まさに「十字架の言葉」は、このように その内容においても、その言葉の聞き手・受領者においても、またその言葉の宣教者・ 証言者においても、人間的な見地からすれば「愚かさ」「弱さ」「無に等しい者」の トリプル・ハンディーがあることを明らかにしているのです。 パウロは自分自身が宣教者としての知恵や能力、誇りとなるべきものを全て脱ぎ捨 てて、赤裸々に自分の弱さ、愚かさ、無力さを明らかにしています。「十字架の言葉」 すなわち「神の秘められた計画」を最初にコリントで宣べ伝えたときのことについて、 「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でし た。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明に よるものでした」と。この具体的な状況については使徒言行録18章を見ると、アテネ で哲学者らにキリストの復活のついて話したところ、ある者はあざ笑い、ある者は 『それについてはまた聞かせてもらおう』と、散々な経験をした後、そこから一人コ リントに行ってユダヤ人の会堂で語った時もユダヤ人の激しい抵抗に遭い、口汚くの のしられる経験をして、ユダヤ人の会堂を後にして隣のティティオ・ユストいう人の 家で異邦人に福音を語るようになったことを伝えています。そこで、ある夜、主が幻 の中で「恐れるな、語り続けよ、黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、 あなたを襲って危害を加える者はいない。この街にはわたしの民が大勢いるからだ」 というあの有名な言葉を聴くのです。この世の知恵や能力と十字架の言葉の激しい落 差を経験すればこそ、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、 何も知るまいと心に決めていた」と、真に依るべきものが何かが確かになり、上から の働きによって立つものとなるのです。
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