7月31日
2016年7月31日

「神に召された時のことを」

申命記 7:6-15 コリントの信徒への手紙一 1:26-31


 コリントの教会の中にある分裂、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」

「わたしはケファに」「わたしはキリストに」と言い合って一つになれないでいる教

会に対してパウロは語ります「兄弟姉妹。あなたがたが召された時のことを思い起こ

してみなさい」と。一人一人がキリストとどのように出会ったか、主イエスの招きを

どのように聞き、十字架の血によって清められ、罪を赦され復活の命にあずかる者と

なったか、ここに立ち帰るように命じているのです。このように命じるパウロの言葉

は単刀直入です。「あなたがたは人間的に見て知恵のあるものが多かったわけではな

く、能力のある者や家柄の良いものが多かったわけではありません。ところが神は知

恵ある者に恥をかかせるため、世の無知なものを選び、力あるものに恥をかかせるた

めに世の無力なものを選び、また、神は地位あるものを無力なものとするために世の

無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」と。相手を

持ち上げるのではなく、「無知なもの」「無能な者」「無に等しい者」等と、失礼と

も思えるようなことを言うのです。誇り高いコリントの教会の人々はこの言葉に傷つ

いたにちがいありません。このようなパウロの激しい言葉遣いを見るにつけ、十字架

の言葉、主イエス・キリストの福音に出会うということは、自分の誇りとなるものが

すべて打ち砕かれることなしには済まないという真理に出会わされることに思い至り

ます。福音の真理に出会うものがすべて経験しなければならない必須の課程なのです。

この過程の経験が不十分なとき、キリストとの出会いも不十分で中途半端な泥に金を

接ぐようなもろい信仰となります。「誇りの病」から治癒され解放されずただの罪人

であるままだからです。

「十字架の言葉」は罪のために神の怒りと裁きを受けなければならなかったわたしの

ために、神の子が低く降って人間となり、罪人であるわたしの友となってくださり、

わたしの罪を代わって担い、十字架の死を御自身の身に受けてくださったその死の体

にわたしを合わせ、罪を清算し、主の復活の命に合わせてくださったことを告げる言

葉です。この命に合わせられて、神の力、神の救いにあずかる者とされます。キリス

トの招きはわたしの罪の現実、無に等しい者の現実に向き合わせ、キリストの贖いの

恵みに合わせられることへの招きです。ここにわたしの誇りとなるものが入り込む余

地はありません。


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