アモス書 8:11-14 コリントの信徒への手紙一 1:10-17
コリントの教会に中にある牧会的な課題として最初に取り上げる具体的な課題は、 党派争い、ねたみや争いが絶えない現実です。パウロは遠回しではなくあからさまに、 「皆勝手なことを言わず、仲たがいせずに、心を一つにし、思いを一つにして固く結 び合いなさい」と語りだし、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わた しはペトロに」わたしはキリストに」と言い合っている様子をクロエの家の者から聞 かされたことを伝えて、この事態にメスを入れるのです。原初の教会が、すべてのも のを共有し、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂 き…こうして救われる人々を仲間に加えて一つにされた」と使徒言行録2:43-47にあ るような、そのような共同体として始まったことを知っています。しかし、それは一 時期の奇跡的な現象で、夢のような理想の状態、向こう側の絵の中の情景、現実には あり得ないことだとわたしたちはどこか心の中で片付けています。人が集まればその 中には必ず分裂があり党派争いがあることを当然としているのです。ところがパウロ は、コリントの教会に対して、心が一つになっておらず、ねたみと争いが絶えない実 際の現実をあからさまに指摘して、立ち返ること、変わることを要求しています。ど この地域であれ、どの時代であれ、一つとなることに向かって、立ち返りと悔い改め、 神の霊による癒しと赦しを必要とし、回復を実現しなければならない課題であること を告げるのです。 回復と癒しはどこから来るのか。パウロが行うコリントの教会の治療の手立ては独 特です。パウロが行う第一のことは「わたしはパウロにつく」と語る人々と自分自身 を引き離し自分の名を分派争いの道具に使われることを拒否しています。いや、それ より、もっと根源にまで降ることを求めています。次にコリントの人々を自らの洗礼 と主イエスキリストの十字架の死に出会わせ、固着させることです。すべての人間的 な格差、誇りとなっていること、偏見や束縛から解き放ち自由にし、隔ての中垣を取 り除く決定的なものとして、キリストの十字架の死と洗礼があることに気づかせるの です。そのことが何を意味しているか、キリスト者には分かるはずです。洗礼の恵み によってキリストの十字架の死の体、復活の体に合わせられていない人と人との交わ りは、誇りの病に取りつかれ、権力争いに明け暮れるこの世の交わりと何ら変わらな いものであること、それ故に、命の源にしっかりと固着して歩むよう促されます。
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