7月3日
2016年7月3日

「召されて聖なる者とされた人々へ」

エレミヤ書 17:1-4 コリントの信徒への手紙一 1:1-9


 コリントの信徒への手紙の講解を始めます。パウロの第二回目の伝道旅行によって、

マケドニアからアテネを経てこの街に来たことは使徒言行録18章に記されています。

ユダヤ人の会堂からの迫害を受けながら「恐れるな、語り続けよ、黙っているな。こ

の街にはわたしの民が大勢いる」との主の言葉を聴いて1年半もこの町に滞在し、こ

こで形成されたのがコリントの教会ですが、この教会に宛てられた二つの手紙を通し

てわたしたちは1世紀にギリシャの都市にたてられた実際の一つの教会の状況と、教

会が教会として立ち上げられてゆくべき信仰のありかたを新約聖書の中でも最も深く

知ることが出来ます。

 新約聖書の中には「手紙」という形で神の言葉が伝達されている文章がいくつもあ

ることの不思議を覚えます。神からの言葉についての宣言文や信仰告白文と言う形で

はなく、法令や戒めというのでもなく、さらに神話的な物語や文学的な作品、詩や演

劇ということでもなく、手紙なのです。手紙には送り手があり受け手があって、その

中に記されているのは両者の間の特別な関係と手紙を書かなければならない特別な状

況が前提にされています。一般的な公開書簡を別として、直接性と個別性が手紙の特

徴といえます。コリントの教会の特殊事情に対して書かれた使徒パウロの手紙が永遠

性と普遍性を持つ「神の言葉」として聖書に入れられているのです。わたしたちは手

紙を通して神の言葉を聴くために、それぞれの手紙に語られている特殊な事情を正確

に知ると共に、その特殊な状況の深くに通底する今に通じる神からの語りかけを聴か

なければなりません。コリントの信徒への手紙は、「福音が市場にもたらされた状況」

の中で、様々な問題との取り組みを学ぶことができます。

 この手紙は、「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ

と、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ」と定形の言葉で始まります。パ

ウロは自らを「使徒」として召された者であること、また、コリントの教会は「キリ

スト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」とそ

れぞれの紹介が記されていますが、実はこのわずかの言葉の中に以下で展開される重

要なカギになる言葉が示されています。パウロの使徒性に対するコリントの教会の中

にある疑い、「召されて聖なる者とされた人々とは到底言い難い世俗的で社会的格差、

人間的な誇りから離れることが出来ないコリントの教会の人々に「あえて」このよう

に呼び掛けていることを知らされるのです。 


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