申命記 4:9-14 マルコによる福音書 10:13-22
わたしたちの教会は毎年6月第二の日曜日は「花の日・子どもの日」として日曜学校 の子どもたちや保護者の方々も一緒に合同の礼拝をしています。19世紀半ばにアメリ カの教会から始まった習慣ですが、6月の花が一杯に咲く時期に、教会を花でいっぱ いに飾って自然の恵みを感謝すると共に子どもの存在の大切さを覚えるときとしてこ の日を定めたと言われています。「花」と「こども」との関連でこの日の礼拝が定め られています。「花」と「子ども」にどんな関連があるのでしょう。花も子どもも生き て成長する姿を見せてくれますし、ひとつ一つの花も一人一人の子どもも驚くほどの 多様性と複雑さ、そして不思議な装いと美しさ、可愛さをもっていることは誰でも認 めることが出来るでしょう。しかし、一歩子どもの現実に踏み込んでみるとただ美し くかわいいとひと言で言えるようなものではないことは誰も経験しています。子ども 命の危さ、未熟さ、もろさも、花の命のはかなさと共通のところがあるかもしれませ ん。主イエスが花と子どもの関連に目をつけている視点は独特です。花も子どもも神 の国を映し出す鏡、神の支配。神の国と神の義のありようを教えてくれるものとして あるというのです。「野の花がどうして育つのか注意してみなさい。働きもせず紡ぎ もしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえこの花の一つほどにも 着飾ってはいなかった。今日は生えていて明日は盧に投げ込まれる野の草でさえ、神 はこのように装ってくださる…」(マタイ6:28〜30)。と、また、同じように主イエス は幼子を胸に抱いて、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはなら ない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように 神の国を受け入れる人でなければ、決して神の国に入ることはできない」(マルコ10:14〜15) と語られました。野の花も子どもたちも、この世に生きるわたしたちに神の国の奥義、 不思議を知らせる教師、鑑だというのです。 多くの群衆に囲まれて教えを説く主イエスのもとに「触れていただくために」子ど もたちを連れてきたとき、イエスの弟子たちは「この人々を叱った」と記されていま す。主イエスは弟子たちの行為に対して強い怒りを示され、「子どもたちをわたしの もとに来させなさい」と言われました。その怒りは、ただ親の気持ちを大事にしたと か、子供たちを可愛いと思ったからということ以上の、もっと深い意味が込められて いるでしょう。神の国の神秘に至る道がそこに示されている、と言うのですから。
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