6月5日
2016年6月5日

「試みにあわせないでください」

創世記 22:1-19 コリントの信徒への手紙一 10:1-13


 主の祈りの最後の祈りは「我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」です。

「試み」とは試練のこと、わたしたちが経験する艱難や悩みすべてがここに含まれま

す。しかし、この祈りの別の訳では「わたしたちを誘惑に遭わせないで、悪から救い

出してください」と「誘惑」と訳されることもあります。「試み」と「誘惑」とではだいぶ

意味が違いますが、この言葉の原語ギリシャ語の「ペイラスモス」はこの両方の意味

がありますからこの意味の広がりと深みの中で、主イエスがこのように祈りなさいと

命じられたことの意味を考えなければなりません。

 わたしたち人間がこのように祈る必要があるのは、すべての人が生きて行く限り苦

難との闘い、悪への誘惑、死と滅びへと誘うものから逃れられないという現実があり

ます。それとともに、ハイデルベルク信仰問答にあるように「わたしたちは自分自身

ではまことに弱く、一瞬たりとも支えなしには立つことが出来ない」という自分の弱

さもろさに対する認識、この両面の現実認識がないところにはこの祈りはありません。

そして、そのように祈ることの必然性は、わたしたちのなかに本来あるべき生き方、

目的や基準についての感覚、そこに向わなければならないという心の底にある願いが

あることに気づかされます。不幸には安住できません。

 試みと誘惑には右からのものと左からのものがあると言われます。右からのものと

は、「サタンは光の天使を装う」と言われるように、豊かさ、権力、名誉など一見祝

福と成功と見えるものが罪と悪と滅びと死に誘うからです。左からの誘惑は、貧困、

病気、災害、侮辱など「試練」と一般に呼ばれるものです。自分を自分でない者に

変える悪魔的な力は、左からのものだけでないことに気づかなければなりません。

悪魔、この世、そして自分の欲望から来る試みは、肉の闘いではなく霊の闘いなの

です。

 この祈りには独特の神学的な問題があります。「神は悪と試みをもたらす張本人

であるのか」という問題です。ヤコブ書1:12以下には「神は人を誘惑したりなさら

ない・・むしろ自分自身の欲望に引かれ、唆されて誘惑に陥るのです」と語られま

す。しかし、アブラハムやヨブの例にもあるように、神からの試みがあります。そ

の試みを経なければ悟りえない真実、人間の現実の中での神の支配のありようを悟

らされるからです。この祈りは主が祈られた祈りであり、この祈りと共にこのただ

中に主イエスがおられます。


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