創世記 22:1-19 コリントの信徒への手紙一 10:1-13
主の祈りの最後の祈りは「我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ」です。 「試み」とは試練のこと、わたしたちが経験する艱難や悩みすべてがここに含まれま す。しかし、この祈りの別の訳では「わたしたちを誘惑に遭わせないで、悪から救い 出してください」と「誘惑」と訳されることもあります。「試み」と「誘惑」とではだいぶ 意味が違いますが、この言葉の原語ギリシャ語の「ペイラスモス」はこの両方の意味 がありますからこの意味の広がりと深みの中で、主イエスがこのように祈りなさいと 命じられたことの意味を考えなければなりません。 わたしたち人間がこのように祈る必要があるのは、すべての人が生きて行く限り苦 難との闘い、悪への誘惑、死と滅びへと誘うものから逃れられないという現実があり ます。それとともに、ハイデルベルク信仰問答にあるように「わたしたちは自分自身 ではまことに弱く、一瞬たりとも支えなしには立つことが出来ない」という自分の弱 さもろさに対する認識、この両面の現実認識がないところにはこの祈りはありません。 そして、そのように祈ることの必然性は、わたしたちのなかに本来あるべき生き方、 目的や基準についての感覚、そこに向わなければならないという心の底にある願いが あることに気づかされます。不幸には安住できません。 試みと誘惑には右からのものと左からのものがあると言われます。右からのものと は、「サタンは光の天使を装う」と言われるように、豊かさ、権力、名誉など一見祝 福と成功と見えるものが罪と悪と滅びと死に誘うからです。左からの誘惑は、貧困、 病気、災害、侮辱など「試練」と一般に呼ばれるものです。自分を自分でない者に 変える悪魔的な力は、左からのものだけでないことに気づかなければなりません。 悪魔、この世、そして自分の欲望から来る試みは、肉の闘いではなく霊の闘いなの です。 この祈りには独特の神学的な問題があります。「神は悪と試みをもたらす張本人 であるのか」という問題です。ヤコブ書1:12以下には「神は人を誘惑したりなさら ない・・むしろ自分自身の欲望に引かれ、唆されて誘惑に陥るのです」と語られま す。しかし、アブラハムやヨブの例にもあるように、神からの試みがあります。そ の試みを経なければ悟りえない真実、人間の現実の中での神の支配のありようを悟 らされるからです。この祈りは主が祈られた祈りであり、この祈りと共にこのただ 中に主イエスがおられます。
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