詩篇 51:3-14 マタイによる福音書 18:21-35
主の祈りは「世界を包む祈り」と称されます。この短い祈りの中にこの世界に生き る者に必要なすべてのことが含まれているという意味です。この中に第5の祈り「我 らに罪をおかすものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」があります。そ の祈りの心をわたしたちはどのようにとらえ、どのように心の底から祈っているでし ょうか。 この祈りの言葉はマタイによる福音書では「わたしたちの負い目を赦してください。 わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」となっているのに対し、ル カによる福音書では「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目 のある人を皆赦しますから」となっていて、微妙に違います。「罪」と「負い目」の 違い、また、「赦しました」と過去形になっているのに対し「皆赦しますから」とな っていること、この違いをどう考えたらよいのか、思いめぐらすと簡単ではありませ ん。「わたしたちの罪を赦してください」と祈るには、わたしたちに負い目のある人 を赦したという条件が整わなければならないとすれば、わたしにはこの祈りはとうて い祈れない、あるいは、「皆赦します」とはどうしても言えない、とこの祈りの前に 立ち止まってしまう人もいます。ハイデルベルク信仰問答では、「わたしたちも心の 底からわたしたちの隣人を赦すことによって、あなたがわたしたちに示してくださっ たこの恵みを覚えている証しとします」と、条件としてではなく、わたしたちが主に よって罪を赦された結果への応答として、決意と促しと捉えており、示唆を与えられ ます。ここで確かにしておかなければならないことは、神に対して罪の赦しを求める 祈りは、わたしたちの隣人との関係にも反映し連動しているということです。 主イエスはわたしたちにこのように祈るべきであること、このように祈ることが出 来ることを教えてくださいました。しかし、日本の伝統的な宗教観や現代的な思考の 中で、「罪の赦されること」「罪を赦すこと」が生きる上で根本であることの自覚を 促されるところが少ないように思います。「日用の糧を与えてください」の祈りと『試 みに遭わせないで悪より救い出して下さい』と言う祈りの間にこの祈りがなければな らないことを教えているのです。まさに、主イエス・キリストの生涯、その死と復活 は、わたしたちがこの祈りをすることができるためにあったことに気づかされます。 キリスト者は罪の赦しが確かにあることを告げ知らせ、証しします。
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