イザヤ書 65:17-25 ルカによる福音書 24:1-35
主イエスは十字架に架けられ、墓に葬られ、三日目に死人のうちから復活されまし た。主は復活した姿をどのようにあらわされたのか、福音書は様々な場面を伝えてい ますが、ルカによる福音書はエマオに向う二人の弟子たちに現された物語を伝えて、 今も生きておられる主はわたしたちにどのように出会われるかの重要なヒントを与え てくれます。 主が復活された日の午後、二人の弟子たちはエルサレムから10キロほど離れたエマ オという村に向って歩いていました。彼らは他の弟子たちの共同体があるエルサレム から離れ去り、散らされて、各々自分の道に帰って行く旅についています。深い失望 と共に、重い足どりで、挫折と失望、虚しさを抱えた暗い気持ちで。主イエスは、こ の離散してゆく弟子たちの所に近づき、離れ去ってゆく者と一緒にしばらくの旅をさ れる、エルサレムにいる11弟子にご自身を現される前に、中心にとどまることが出来 ない弟子たちと歩みを共にされるのです。復活の主は、もうすでにガリラヤにおられ たときのように、留まっていないで、歩きだし働いておられます。 彼らは主イエスが近づいて共に歩き出した時、「彼らの目は遮られていてイエスだ とはわからなかった」と言います。「遮られる」の原意は、「保持する」、とか、 「支持する」といった積極的な意味と「妨げる」、「制限する」という否定的な意味 を含んでいます。この場合、一つの考えに固着して新しい事実を受け入れることが出 来ない状態、凝り固まっているがゆえに、見ていても見えていない状態だったという ことで、わたしたちも思い当たるところがあります。道々彼らが説明する「この頃エ ルサレムで起こった出来事」の報告の仕方で、彼らの主イエスの十字架の死と復活の 受け止め方の問題性が明らかになります。全く向こう側の出来事で、わたしたちのた めの出来事として受け止められていないのです。「父よ、彼らをお赦しください。自 分が何をしているのか知らないのです」という祈りや「わが神、わが神、なぜ、わた しをお見捨てになるのですか」という叫びは、わたしのための祈りであり、わたしの 罪の淵からの叫びであることにはなっていません。それはナザレのイエスの出来事で あり、祭司長や議員たちの仕業で殺されたことであり、失望する出来事であったにす ぎないのです。しかも、彼らは、もうすでにイエスは復活したという情報を得ていた にもかかわらずです。今に到る厚い不信の壁をここに見ることができます。復活の主 は、この人々と共に歩かれ、御自身の生きている姿を表されます。
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