イザヤ書 50:4-11 ルカによる福音書 19:28-44
受難週の初めの出来事、子ロバに乗ってエルサレムに入城されたことはどの福音書 にも記されていますが、ルカによる福音書が語るこの出来事には独特のニュアンスが 含まれています。既にエルサレムに上ってゆくことは、主イエスにとってそこで死を 迎えることになることを予告していました。「わたしは、昨日も、今日も、その次の 日も、自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の場所で死ぬことはあ り得ないからだ」と語った、その街に上って行くのです。二人の弟子を遣わして、 「向こうの村へ行きなさい。そこにはいるとまだ誰も乗ったことのない子ロバがつな いであるのが見つかる。それをほどいて引いてきなさい。もしだれかが、『なぜほど くのか』と尋ねたら、『主がお入用なのです』と言いなさい。」主イエスはこの子ロ バを用いて、この子ロバの主として、人類の救いに決定的な出来事を起こす街に入城 されたのでした。エルサレムへの入城の仕方は、まさに主イエスの自作自演、権力と 富とを印象付ける入り方ではなく、平和の王として預言者ゼカリアの預言に従って、 子ロバに乗って、明確な意図を持った象徴的な仕方で入城するのです。 他の福音書では、主エスを迎えたのは道に上着を敷いて「ホサナ、ホサナ」と叫ぶ 大群衆ですが、ルカは弟子の群れが、「主の名によって来られる方に祝福があるよう に。天には平和、いと高き所には栄光」と叫ぶと、ファリサイ派のある人々が「先生、 お弟子たちを叱ってください」とたしなめるのに対して「もしこの人たちが黙れば石 が叫び出す」と語られる一幕もあって、この入場はまさに対立しあうこの世のただ中 に突入するような出来事であったと伝えているのです。 主イエスのエルサレム入城とそれに続く主イエスのふるまいは、平和と安心ではなく 独特の緊張をもたらしたことが暗示されています。主イエスは都が見えたとき、その 都のために泣いたことが記されるのです。「もしこの日に、お前も平和の道をわきま えていたなら・・・、神の訪れてくださる時をわきまえなかったから・・・」この二 つのわきまえのなさがこの街の滅びを招くことになると予告しておられるのです。数々 の栄光と誇りの歴史に満ちたこの神の都に主は裁きをもたらします。主の十字架の死 は、裁きの印です。 そして、わきまえないわたしたちの街と心にも。
秋山牧師の説教集インデックスへ戻る