イザヤ書 43:16-21 ヨハネによる福音書 12:1-8
ナルドの香油を主の足に注いだ女性の話は、十字架に向う主イエスをめぐるすべて の人々が、弟子たちも含めて主を死へと引き渡す行動に呑み込まれてゆく中で、ただ 一人、主の死に心を合わせた人として特筆されます。主イエスは、300デナリもす る純粋で高価なナルドの香油を注ぎ出したこの女性の行為を非難する人に対して、 「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って おいたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一 緒にいるわけではない」と言われたのでした。 ナルドの香油をイエスの足に注ぐことと主イエスの十字架の死、葬りとどのような つながりがあるかを考えると興味深い並行があることに気づかされます。両者ともに 「捨てる」こと、しかも、実に貴い高価なものを無駄に捨てるのです。300デナリ のナルドの香油と人の子となられた主イエスの命とはくらべものになりませんが、驚 くほどの捨てる行為、すべてをささげる行為であることは共通しています。また、両 者ともに「捨てる」のは「与える」ためでした。ナルドの香油は感謝の行為として主 イエスに対して、また、主イエスはその命を全ての人の罪を贖うために与えたのです。 そこには愛があります。さらに、主イエスの十字架もナルドの香油を注いだ行為も、 ただ一度限りの行為であり、繰り返し何度も再現されるようなものではありません。 主イエスはこの無駄とも思えるマリアの行為を、おそらくマリア自身の思いをはるか に超えて意義のあることとして受け入れておられます。全ての人の罪を贖うために流 される新しい契約の血として、罪人らの手に引き渡されるあの十字架の死の無残さを、 その死の外貌の奥に潜む神秘のかぐわしい香りで包むものとして受け入れられるので す。 ヨハネによる福音書では、この女性の行為に対して「なぜこの香油を300デナリ オンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と憤ったのはイエスを裏切ることに なるイスカリオテのユダであったと記しています。ユダも、貴重なもの、純粋なもの を捨てること与えることの意議を認めています。ユダの問題は、いつ誰に向って自分 の命を、自分の宝を捨てて与えるべきかが確かではなく、目の前の損失に心を奪われ ていることです。このようにして、ただ一度限りの主の十字架の出来事に、裏切りと いう決定的な役割を果すことによって命を捨て与えることになりました。
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