イザヤ書 5:1-11 ルカによる福音書 13:1-9
町や村をめぐって教えながら十字架に向って歩まれる主イエスの歩みの途上で、 「何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエ スに告げた」ことがルカによる福音書だけに記されています。ローマの植民地支配の 圧政に抵抗するガリラヤ地方の民衆に対する総督ピラトの暴力的な仕打ち、ここには 今日に至るまで世界の各地で広がる利己的な権力者の横暴とそのもとで苦しむ民主の 現実が映し出されています。このような現実に対して神の国の福音を告げる主イエス の救いの調べはどのような形で救いのメッセージを送るのかが注目されます。「イエ スが新聞を読まれたら」という書物がありましたが、現代を生きるキリスト者は世界 中で起こる出来事、政治的・経済的・社会的な権力構造の中で、戦争、抑圧、差別、 貧困、災害、その他、絶え間なく伝えられる人間の窮状にたいしてどのような救いと 慰めのメッセージを主に倣って語ることが出来るのか、またどのような行動へと促さ れるのか、わたしたちも主イエスの答えに深い関心を持ちます。 主の答えは意外です。「ガリラヤの人たちがほかの人たちよりも罪深い者だったか らだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなけれ ば、皆、同じように滅びる」と。また、そのころ起ったエルサレムのシロアムの塔が 倒れて18人が死んだという事件についても、これとまったく同じ言葉で語られます。 ピラトによるガリラヤ人殺害という政治的事件も、シロアムの塔の倒壊による大量死 亡事件という自然災害も、「あなたがたも悔い改めなければ」と言う言葉でくくられ ているのです。同じガリラヤのナザレ出身のイエスがガリラヤの民衆の深い怒りと悲 しみ、非人間的な圧政と暴力の被害者に対しての同情や共闘、あるいは自然災害の中 で犠牲者となった人々や関係者に対する慰め、あるいはその出来事の背後にある原因 究明、事後の対策などではなく、悔い改めを迫る促しとして受け取るようにと教えら れます。 この主イエスの答えによって、わたしたちは「悔い改め」が意味する根本的な意味、 広く深い意味を捉え直すことが求められていることに気づかされます。それは単なる 静止的な反省、瞑想ではなく、出来事の根源にある神からの問いかけに直面すること、 罪の現実を認識して、正しい応答への呼びかけ、神と人と自然との正常な本来の関係 への立ち帰りを促すものであるのです。
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