2月14日
2016年2月28日

「律法の第三用法とは」

エレミヤ書 31:31-37 ガラテヤの信徒への手紙 3:21-29


 ハイデルベルク信仰問答の十戒の解説の最後、問115の答えは律法全体が主イエ

ス・キリストを信じ、神との正しい関係に生きる信仰者にとってどのような意義があ

るかについて要約しています。「第一に、わたしたちが生きながらえる限りわたした

ちの罪深い性質についての認識を深めて、キリストにおける一層の罪の赦しと義を熱

心に願い求めるようになるためです。第二に、間断なく励んで、聖霊による恵みを神

から与えられるように願い求め、神の御姿に似た者となることに向って、この世の命

が終わった後には完成の目標に到達できるまでに絶えず新しくされるようになるため

です」と。キリスト者に求められる日々の生活の在り方、正しいふるまいがどれほど

身についているか、聖書の御言葉が隣人や社会とのかかわりの中でどのように生きて

働いているかを省みるとき、十戒が教える一つ一つの戒めとわたしたちとの関わりが

問われます。

 十戒と神の律法は単純にこれらの戒めを守れば平和があり、自由があり、救いがあ

ると教えるのではありません。「律法の実行することによっては誰一人神の前では義

とされないのです。律法によっては罪の自覚しか生じないのです」と語られるように、

正しく良いものであり、霊的でさえある神の律法がわたしたちの罪のゆえに、むしろ

罪を犯させることを助長する働きをし、わたしたちの罪深さがどれほどであるかを明

らかにする働きをすると聖書は教えます。これが「律法の第一用法」(教育的用法)と

言われることです。鏡のようにわたしたちの罪を映し出す働きです。

 しかし、それだからと言って律法が人間にとって無駄な邪魔な存在であるわけでは

ありません。律法があることによって人間の社会に秩序がもたらされ、それなしでは

大変な混沌と混乱が生じます。どんな社会でも秩序を乱すものに対して厳しい処罰が

あり、無軌道な人間であっても、それぞれの社会にある法と無関係に生きられません。

神は人を造られたとき、人の心に自ずから法の下で生きる心を与えられました。カル

ヴァンはこれを「律法の第二用法」(市民的用法)と呼んでいます。

 さらに、律法は人間の罪のゆえに廃棄されてしまったのではなく、律法が教える義

が消え失せるものではない。主イエス・キリストの死と復活を信じる信仰によって罪

の赦しと贖いにあずかった者たちが、聖霊の導きによって神の意思に従って生きるた

めの指針が律法によって示されている。これを律法の第三用法と呼ぶのです。ハイデ

ルベルク信仰問答が教える第二のポイントです。


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