詩篇 15 ローマの信徒への手紙 12:9-21
「あなたはあなたの仲間(隣人)について偽りの証言をしてはならない。」この第九戒 の戒めは、直接的には裁判の場面で偽証によって隣人をおとしめたり、名誉を傷つけ たり、更には命を奪うようなことがあってはならないということです。しかし、この 戒めは単に裁判の席における真実が求められるだけでなく、もっと広く、人間関係全 体において、その中で交わされる言葉、人について語られる言葉の真実性が問われて います。従って、この第九戒がカバーしている生活領域は、出会いと交わりの中で生 きるわたしたちの在り方全般にわたるもので、極めて根源的なところに関わっていま す。 詩篇15篇には、どのような人が主を礼拝する者にふさわしいかについて、「心には 真実の言葉があり、舌には中傷を持たない人、友に災いをもたらさず、親しい人を嘲 らない人…」と、わたしたちの言葉がどこに向かうべきかを明らかにしています。一 方、ローマの信徒への手紙で、パウロは人間社会の中で交わされる言葉がいかに罪に 満ちているかを列挙します。「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を 欺き、その口には蝮の毒がある。口は呪いと苦みで満ち、足は血を流すのに早く、そ の道には破壊と悲惨がある。彼らは平和への道を知らない…」(ローマ3:9−20)。 パウロが指摘する人間の現実は、遠い昔の人間社会の現実と言うより、より今日的な 様相を捉えていると言えるでしょう。 偽証、中傷、陰口、虚言などはどこから起こるのか。新約聖書にある最も有名な偽 証事件は、主イエス・キリストを十字架に架けることになった一連の裁判事件です。 大祭司の中庭での裁判は、初めから結論ありきの裁判でした。「イエスについての不 利な証言を求めたが得られなかった」と記されています。ローマの総督ピラトは「祭 司長たちがイエスを引き渡したのはねたみのためだとわかっていた」と言うのです。 偽証の背後にある「ねたみ」の罪。ピラトは主イエスの無罪について確信があったに もかかわらず、民衆の声に負けて十字架に引き渡してしまいました。為政者として守 るべき正義を放棄し、守るべき他者の命について「無関心・無責任」の罪。−−−主 が十字架において担われたのは、このような第九戒を犯す罪であったのです。十戒の 学びを通して繰り返し確認したことですが、これらの戒めは人間社会の在り方の基本 倫理として理解するのではなく、主の憐みによって自由にされた「あなた」の生き方 を指し示すものとして、注意深く聴かなければなりません。
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