創世記 9:1-7 マタイによる福音書 5:21-26,38-42
『殺してはならない』との十戒の第6の戒めは、何故にとか、違反したらどうなるか など、一切の付帯する言葉なしに断言的に『殺してはならない』とだけ語られます。 この戒めは何の根拠がなくても誰の心にもある規範で、これを否定する者はないはず と思われる反面、あらゆる種類の殺人、命を損なう事件、戦争がやむことはなく、こ の戒めがあってなきがごときものになっていることも事実です。人類の歴史と現実は この戒めの無力化に向って総力を挙げている様相を示しています。あまりにも当り前 で手垢にまみれてしまっているこの戒めを、わたしたちはどのように新鮮に、わたし に語りかけられている神の戒めとして聞くことが出来るかが問題です。 そのために、十戒全体を受け止める受け止め方の基本に立ち返らなければなりませ ん。その一つは、十戒は「わたしは主、あなたの神、あなたを奴隷の家、エジプトの 国から導き出した神である」という主なる神の宣言に始まる戒めであった、というこ とです。神の力強い御手によって奴隷の状態から解放され、自由を与えられた民の自 由に生きるべき道が一つ一つの戒めによって示されているのです。キリスト者にとっ て、とりわけ主イエス・キリストの血によって罪を赦され、贖われた者の生きるべき 自由への道が示されている、その生き方の基本の一つが『殺してはならない』という ことです。神が創造され祝福された一人一人の命に対する、主なる神の配慮と守りが あることをこの戒めを聴くときに思い起こさなければなりません。従って、殺さない という消極的な生き方をしてさえいればよいということではなく、「隣人に対して忍 耐、平和、柔和、親切、友情を示し、その人にとって障害となるものがあれば出来る 限りそれを取り除き…」ということも含まれることになります。 次に思い起こすべきことは、この戒めは二枚の板の二枚目の戒めだということです。 1枚目の戒めは主なる神とのかかわり方、二枚目は隣人とのかかわり方が主題となっ ていました。この順序が大切です。『殺してはならない』という戒めは、すべての偶 像礼拝、物神礼拝を退けて神のとの正しい関係を回復することなしには実効的なもの とはならないことを教えられます。殺してはならないとのいましめは、博愛の精神や 人間的な嫌悪感、価値観を根拠にして守られるべき戒めではないのです。神の子の命 を代償にして生きるべきものとしてくださった命を与えられた者として共に生きるこ とが求められているのです。
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