エレミヤ書 4:1-2 コリントの信徒への手紙二 1:15-22
十戒の第三戒、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその 名を唱えるものを主は罰せずにはおかれない」は、神の御名を冒?してはいけないと いうだけでなく、神にかけて偽りの誓い、呪いや呪文、魔術などを禁じていることと 学びましたが、『ハイデルベルク信仰問答』では、さらに、神の栄光と隣人の救いの ために信頼と真理が求められ、保たれる必要があるとき誓約をすることができる、と 教えます。むしろ、この戒めの厳しい禁止が意味するところは、主の名が正しく唱え られるようにということですから、主の祈りの最初の祈り、「御名があがめられます ように」と抱き合わせにすると、その本来の意味が明らかになります。 『主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていること でしょう」(詩編8:2)と詩人は歌います。天を仰ぎ、また地のすべてのものを観察す る時、そこに満ちている主の名に目をさまされ、感動し、主の名をたたえる。その心 で、「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何者なのでしょう」と聖なる 神の前に立たされるものの畏れと慎み、それこそが、この戒めによって導かれるわた したちの正しい自由な生き方なのです。 自らを反省すると、神の名を乱用し正しく唱えないことと、神の名を全く唱えない ことと、この両方の罪がいつも付きまとっていることに気づかされます。ヴァルター ・リュティは、「偽証しているよりも御言葉の奉仕を通じて、神の御名が深く傷つけ られてしまうことがあるのです。神を嘲る人々が座っている場所よりも、敬虔な人々 が座っている場所で、もっとひどく神の御名の神聖さが汚されてしまうことがあるの です。わたしたちは神を冒?するよりも祈ることによって、神の御名をみだりに唱え ることがあるのです」と指摘します。その通りです。しかし、そのようなわたしたち に、主なる神は、主イエス・キリストとともに「天の父よ」と主の名を呼ぶことを求 めておられ、またそのように呼び掛けることを喜んで待っておられることを、わたし たちは知っています。わたしたちが「父よ」と呼びかけるより先に、わたしたちの名 を一人一人呼んでくださることを知っているのです。パウロは主イエス・キリストに 結ばれて生きることは、「然り、然り」が同時に「否、否」となるようなものではない。 「然り」が神の御子・主イエスにおいて実現した、と語ります。この主の執り成しに よって、わたしたちは主の名を呼び、このように主の名を呼ぶ者として、互いの名を 呼び合います。
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