エレミヤ書 7:1-15 マタイによる福音書 5:33-37
十戒の第3の戒めは『あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない』です。 「みだりに」とは、空っぽの内容で、何の目的もなしに、ただ自分の都合だけで神の 名を呼ぶこと、偽りの誓いのために神の名を利用すること、また、神の名を冒涜する ということなどを含みます。偽証、呪い、魔術、迷信的な呪文、聖人の名をかけて誓 う事、等々、旧約のイスラエルの民の間でも、今日に至るまでの教会の歩みの中にも、 神の名を汚すような事例は数多く刻印されています。『ハイデルベルク信仰問答』で は、神の名を騙ることを戒めるだけでなく、神の名が呼び求めるべきところで呼ばな いこと、神の名が汚されているのに、これに対して沈黙したり、見過ごしにしたりす ることも、この戒めに背くことになると教えています。要するに、「畏れと敬いをも って、神の聖なる御名を用いること以外の用い方をしてはならない」、ということだ と言うのです。神の名を乱用することは、人間の心に深く根差すものですから、主イ エスは山上の説教で、一切誓ってはならないと厳しく戒め、「然りは然り、否は否で あるべきだ」と言われました。 しかし、思いめぐらしてみると、主なる神は、私たち人間に神の名を呼ぶことを求 めておられる方ではないでしょうか。主なる神は「悩みの日に主の名を呼べ」と促し てくださる方、主イエスは、「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うなら ば、父はお与えになる」(ヨハネ16:23)と約束して下さいました。わたしたちは、主 の名を呼ぶことなしには、わたしたちの命も生活も、愛も希望も成り立たないことを 知っています。わたしたちの信仰は、「アバ父よ」と呼ぶことから、また主イエスの 名によって祈るところから始まります。では、なぜ、これほどに厳しく、主の名をみ だりに唱えることを戒め、「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」 と言われるのでしょう。神の名を乱用することは、罰が伴うと。この第3戒の厳しい 戒めの心は、主なる神は私たちが主の名を呼び求めるとき、どれほど真剣に、熱情を もってわたしたちの声に耳を傾けて下さっているかの証しにあると取るべきです。そ の神の側の真摯さに対応する誠実さがわたしたちに求められます。「あなたがたの天 の父は、あなたがたの願う前からあなたがたに必要なものをご存じなのだ」と示され ます。この天の父を知り、主の名によって天の父よと呼ぶことこそ、真の自由と解放 に至る道なのです。
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