出エジプト記7:8-13;ルカによる福音書13:31-35
モーセとアロンの召命物語からいよいよエジプト王ファラオとの対決の場面へと展開 します。ここで、杖をへびに変える奇跡に続いてナイル川の水を血に変えることなど、 10の災いがエジプトの全土にふりかかり、ついにイスラエルの民をエジプトから去ら せるに至るドラマが展開されます。奴隷の民が自らの解放のために立ち上がる、という のではなく、またすぐれた指導者モーセの卓抜した指導力によってでもなく、主ご自身 が大いなる手を伸ばして、自ら闘い、主の民を約束の地に導き上る解放の歴史です。 それにしても、ずいぶん悠長な歴史です。イスラエルの民を奴隷の苦役から解放する 闘いをそっちのけに、いつの間にか、モーセやアロンとエジプト王ファラオとその家臣 との奇跡の力の比べ合い、蛙やアブや、イナゴまで飛び出してきて、なんとも牧歌的と いえば牧歌的ですが、どれにしても決定打にはならない。最後にやっとエジプト中の長 子が死ぬことになってエジプトから脱出することができるのです。よくも主はこのよう な悠長な闘いをするものだ、と思わされます。また、ファラオにしても、一挙にモーセ とアロンを捕らえて拘束し交渉を終わらせればよいものを、むざむざとエジプトをさま ざまな危険と災害にさらして、ついに屈服するのも不思議です。わたしたちは、このよ うな悠長な主の闘いに向き合ううちに、わたしたちのこの世の現実との闘いのあり方の ことを思わされます。その闘いも、また、一挙に問題解決という具合にはゆかず、長い 長い坂道を登るようです。そのような悠長な闘いの中で、主はご自身が主であることを、 深く深くわたしたちの中に刻み付けてくださることを思い知らされます。 最初の奇跡、「杖」を「へび」に変えるという出来事をもってファラオと対決する場面 ですが、このような場面をつくりだしたのはエジプト王ファラオその人ででした。「奇 跡を行ってみよ」との促しによってその奇跡を行うことになったのです。ところが、そ のような不思議は、エジプトの賢者や魔術師も同じことを行うことができたので、ファ ラオの心をうごかすことはできませんでした。この失敗に終わった奇跡を通して、本当 に奇跡と思われることは、杖がへびに変わったことでも、また、同じことをエジプトの 魔術師が行ったことでもありません。モーセもアロンも、このような失敗の事態に少し も動揺しなくなっている、このことの方が不思議です。これは明らかに以前の彼らとは 違います。どうして、そうなったのか、それは、主の言葉を本当に聞き始めたからでし ょう。主の言葉どおりに闘いは展開することを彼らは知りはじめたのです。正しく主の 言葉を聞くこと、ここに不動の確信の根拠があります。