創世記22:1-18;ヨハネによる福音書18:28-40
主イエスが十字架にかけられたのは、ローマの総督ピラトの名のもとにおいてでし た。ピラトは、確かに、神の永遠の救済計画を実現するために、罪人である全人類を 代表して、主イエスを十字架にかけた人物です。神と人との歴史の中で決定的な役割 を果たすことになった罪人とは、どのような人なのでしょう。 福音書で描くところでは、ピラトにとって主イエスは無関係でありたかった人、こ こにこの本質があります。主イエスを十字架につけたかったのはピラトではありませ ん。ピラトはユダ人ではなく、ユダヤ人のメシヤなどどうでもよかったのです。ロー マ総督として主イエスを裁かなければならなかった時、ピラトはユダヤ人の祭司長や 長老たちの訴えを取り上げるつもりも権威を擁護する姿勢もありませんが、また、主 イエスの人権を守るという責任も取ろうともしません。無責任、無関心、無関係、あ くまで自分の向こう側のこととして済ませようとしました。 ピラト:「お前は、ユダヤ人の王なのか。」 イエス:「わたしの国は、この世に属していない。わたしは真理について証するた めに生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの 声を聞く。」 ピラト:「真理とは何か。」 ピラトは目の前にいるガリラヤの大工の息子が「ユダヤ人の王」などとは本気で思っ たはずはありません。ただ、自分の権力の及ぶ領域でそこに関わりのあることだけを 聞いたのです。関わりのないものにするために。しかし、対話が進むうちに、次第に、 問われているのは自分の方で、壁際に追い詰められるような感じを覚えたのでしょう か。「真理とは何か」と問い、そこで途切れたままで終わっています。ピラトは普通 の人です。普通の良心の感覚を持った人です。ピラトは権力のある人としてユダヤに 君臨していますが、その権力は中途半端なものですし、それが何に根ざしているもの であるか、自分がより頼んでいる真理、向かい合うべき現実はどのようなののである か、究極の者の前に立つ時、何ものでもなくなってしまうのです。「わたしは道であ り、真理であり、命である」と語られる主イエスの目の前で、「真理とは何か」と力 弱く問うところにまで、彼の魂に目覚めが与えられています。このピラトが、「十字 架につけよ」という「声」に負けて、主を十字架につける当事者になるのです。